1883(明治16)年4月、官営セメント工場は渋沢栄一の保証をもって浅野翁に貸与され、翌年に6万円で払い下げられました。浅野翁は高品質のセメントと量産化をめざして奮闘努力を重ね、皇居の建設に際しても納入業者となりました。
ところが、1911(明治44)年2月、工場の煙突から排出される煤煙に対して、深川地区6町内から千名の抗議署名が集まり、健康被害による排斥運動が始まりました。そして同年には帝国議会でこの問題が取り上げられました。浅野翁は、最新の集塵機の導入によって、多少は改善をしましたが、地元民との6年間続いた紛争は、深川区に5万円、深川材木町など4町に3万円を寄付、併せて粉塵防止に努力することを誓約して決着しました。深川区議会議員だった渋沢の仲介によって工場撤退は免れましたが、1917年に湿地を埋めた川崎田島村に新工場を完成しました。田島村でも尋常小学校へ寄付をするなど地域住民との融和に努めました。
近代産業の発展に伴う初の公害問題は浅野翁の工場からでした。都市の人口増による工場と住宅の都市計画、公害防止への技術開発などの問題提起をしたことになりました。晩年、浅野翁が喉を痛めて飴を携帯していた時もあり、亡くなった原因は、喉頭がんの疑いもありました。そういえば、浅野翁が若い時、粉塵の中で作業を続け、血を吐いた浅野翁に医者は「体だと仕事とどちらが大切か」と尋ねられ、浅野翁は「両方とも大事だ」と答えたそうです。(敬称略)
(長井勉 44期)

浅野セメント深川工場

『東京朝日新聞』 (明治44年2月4日)

『東京朝日新聞』(明治44年8月20日)

同紙 (大正6年11月26日)