浅野翁は近代産業の「インフラづくり」だけではありません。明日の日本を支える“若者”というインフラにも情熱を捧げました。事業が順調に進んできた大正時代の話題です。

 浅野翁の石炭エネルギー創出事業は磐城での炭鉱事業から始まりました。磐城を度々訪れ、石炭事業を検討し、三池炭鉱では三井組に負けたので何とかしてここを手に入れたかった事業でした。渋沢栄一から支援を頂き、1884(明治17)年に浅野翁(36歳)は1万500円、渋沢は6千円などの出資により「磐城炭礦社」を設立しました。やがて石炭輸送のために常磐線が開通しました。地元の発展に貢献した浅野翁を顕彰して、「浅野翁頌徳記念館」が1933(昭和8)年に地元の人々の寄付で完成しました。その館内に掲げられていたのがこの書画です。数年前、この存在を75期の割田隆之君から頂いた写真から知りました。

 「總親和總努力」は、修養団運動のスローガンです。昭和30年代に同記念館は解体されたましたが、書画は常磐興産が所有し、2016年6月いわき市石炭・化石館に寄贈されました。浅野学園史料室にはなく、また筆跡を比べてみると、浅野翁と異なっていましたので、二代目総一郎ではと思っていましたが、浅野翁自筆のようです。

 「修養団」とは蓮沼門三(1882-1980)が1906(明治39)年に設立の青年修養団体で、自己の修養に努め、人格の向上をはかり、相呼応して精神的教育を行い、社会を改善することが目的で愛(思いやり)と汗(努力)を信条とした生き方を学ぶ団体です。「総親和・総努力」の教えは労使協調の考えを通して産業界にも広がりました。そして修養の三主義として、「瞑想」、「勤労」、「偉人崇拝」を掲げています。「偉人崇拝」とは偉人から、多くの教えを学ぶことです。

 浅野翁は、修養会の後援会長である渋沢栄一から支援を頼まれ、仕事の合間を縫って、若者に人格向上と社会改善への道などについて各地を巡講しました。一時は修養団と仕事とどちらが大切か、と部下から責められたこともありました。講演では、これまでの人生の歩みとを若者に熱く語っていたことでしょう。講演の締めは、「心だに、誠の道に・・・・」という菅原公の和歌を詠んだのでは。労使紛争の絶えない時代、各地の工場で賃上げなどの要求が起きると自ら出かけ、対話することもありました。浅野翁は仕事の後、若い従業員が修養・勉強できる場として、職域での修養団の支部づくりにも励みました。

 1930年11月、浅野翁の葬儀の日に修養団旗を掲げる蓮沼を先頭に白シャツ、白ハチマキの隊伍を組んで霊前に焼香した時、その光景に多くの人が涙ぐみました。渋沢は浅野翁葬儀の席で、修養団の後援会長として「創立当時には小さな運動が25年後の今日は全国に支部が設けられ町村、学校、会社、工場などに多数の同志ができ、救霊・救国の原動力となったのは浅野翁の大きな助力のお陰だ」と悼みました。 修養団に問い合わせましたが、浅野翁に関する記録はないそうです。余談ですが、労使対立で悩ましい時代、修養団の教えを土台に、明日を担う従順な若者を育てるために浅野綜合中学校を創設したともいえるでしょう。 (敬称略)

 (参考:「常磐炭田ネットワーク」(2026/7/29) 『修養団 創立100周年誌』 『父の抱負』他)

(長井勉 44期)