1871(明治4年)浅野翁23歳の時、故郷富山・氷見を借金取りから逃げるようにして飛び出し、東京へ。落ち着いた先は、本郷の大塚屋吉兵衛という木賃宿でした。ここで出会ったのが勝海舟の門下で、維新の志士だった新谷道太郎(にいや みちたろう1845ー1941)でした。仕事探しがうまくいかない両人を見て、宿の主人は水売りを薦めました。冷たい水が湧き出るお茶の水で、砂糖を入れて甘くして販売しました。ひと夏でなんと40両(現在価値なら80万円相当)を儲けたとか。冬場はおでんを売ったそうです。
新谷は広島県大崎下島(現呉市)の住職の家に生まれ、後に勝海舟の弟子となり、21歳の時に山岡鉄舟の門下となりました。大政奉還後の1867年11月、坂本龍馬(1835-1867)が暗殺される1週間前に、新谷の実家で薩長芸士の四藩士が集まり、討幕の密議が行われました。維新後、新谷は四国に渡り、松山藩松平隠岐守の武道指南所の代稽古を命ぜられ、1869(明治2)年3月、26歳の時には東京で澤眞太郎から柔道を学ぶことになり、大塚屋に逗留し、ここで浅野翁と出会いました。
おそらく浅野翁は、新谷から日本を近代国家へと導いた卓越した龍馬の行動力と創造力、また西欧列強に対して、負けない日本を創るために船を手に入れ、貿易や海上輸送などの会社組織「亀山社中」のことも聞いたはずです。この竜馬の国づくりの情熱を知り、「死んだ後までも、社会を益することを志す」という事業家魂の原点は、新谷との出会いから聞いた竜馬の話だったのかもしれません。
その後、浅野翁は仕入れ費なしで儲かる商売を求め、知人を頼って横浜へ行き、竹皮屋を始めます。一方、新谷は故郷島根に戻り、仏門に入り、自葬を3回もしながら、地域へ寄付をするなど社会貢献に尽力し、96歳まで長寿を全うしました。新谷の胸像は、温泉津(ゆのつ)温泉にあります。
最後に、もう一つエピソードを紹介します。1924(大正13)年頃、新谷は東京を妻と歩いていた時に、浅野翁が建設した迎賓館である紫雲閣の表札が偶然にも目に止まり、浅野翁を思い出しました。早速、守衛を通じて確認ができ、同館内を案内され、大歓待されたそうです。お互い、懐かしい水売り時代の話などで大いに盛り上がったことでしょう。このように浅野翁は、人との出会いによって、情報と知識を得て、国益をめざす事業を実践していきます。
参考:『維新志士・新谷翁の話』 『新谷翁秘話 志士の遺言書』(諏訪正著)
https://tanken.com/asano.html 「探検コム」・・・幻の迎賓館「紫雲閣」
(長井勉 44期)



